その結果、燿司は自分を見つめ直し、幼い頃に嫌っていた洋裁の仕事をする決意をします。 80年代の日本は、「バブル」に突入し、好景気を謳歌していた時代です。今回は、レアル・マドリードの歴代ユニフォームをまとめました。輝かしい功績を残した会長時代の印象が強いが、選手時代は200以上のゴールを挙げるなど伝説のフォワードとして名を馳せた。
それはアシンメトリーなフォルムや大きな穴の空いたデザイン、そして何よりも当時はほとんど洋服に使用されていなかった「黒」を基調にしたコレクションだったからです。文化服装学院卒業後は、1年ほどパリで過ごした燿司は、帰国後1972年に自身のブランドである「ワイズ」を設立します。燿司は母親の出身校でもある、文化服装学院へ入学、後に手記やインタビューでも多く語っているように、「社会に対しての反骨精神、アウトロー」をデザインの根底にして才能が開花、新人デザイナーに送られる「装苑賞」などを受賞します。
ただ、必死に働いている母親を見て、子供の頃の燿司はその「ミシンの音やアイロンの匂い」が嫌いだったと、後に語っています。当然、幼い頃から傍らにいる母親が、洋裁仕事をしていますので、ミシンの音やアイロンの匂いなどを身近に感じていたと言います。進路の選択では、一度は違う道を選ぼうとするのですが、逡巡の末に洋裁の道へ。父親は戦争で亡くなり、洋裁店を営む母親が一人で燿司を育てていました。
山本耀司は、1943年東京都に生まれます。山本耀司も「株式会社ヨウジヤマモト」を設立して、ワイズを始めとした数多くのブランドを立ち上げていきます。 かっこいいサッカーユニフォームは、欧州・南米など世界の海外クラブチームやJリーグのチームを含めると数多くあります。海外グラブのオーセンティックモデルが最も手軽に手に入った時期を思い出させてくれた1枚です。